私立暇人大学.ac

暇な私立文系大学生のブログ。

前回まで書いてた旅行記が完全に3日坊主で鼻で笑ってしまった。まあ気が向いたら続きを書こう。

 

9年経ったらしい。

この日に震災のことについて書く地元の知人は多いが、今年はやけに多い気がする。

私としては正直言って、この日に震災について書くことはしゃらくせえと思っている。今もしゃらくせえと思いながら書いている。

震災時の記憶について詳しく話すことなんて、同じ地元出身の友達と話す時くらいだ。日常会話でこんな話されても困るだけだろう。

震災に基づいた芸術作品も文学作品も、こうした震災関連の個人のブログでさえも、震災経験が何か別の形に昇華されていくことに対して、私の中では言語化し難い黒靄のような気持ちがあり、今まで少し距離をとっていた。記憶を風化させないために必要なことだと頭では理解していても、その別の形の向こう側には何か得体の知れない不気味さがあった。

私は8年もの間、部活やサークルといった形で芸術が身近なものであったけれど、震災を基にした作品を制作したことはない。18年間福島県で生まれ育ったことは、私にとって非常に大事なアイデンティティだが、福島県で2011年3月11日を迎えたことにアイデンティティを求めたことはなかった。"被災した"という言葉ではなく婉曲な表現を意識的に用いたことからもそこへの抵抗が自分でも感じられる。

先日、地元の友人と震災時のことについて話す機会があった。自分でも驚いたのだが、震災のことについて話して泣きそうになったのは初めてだった。友人の当時の状況に同調して悲しくなったのか、自分の当時の状況を受け入れて泣きたくなったのかはよくわからない。でもそれ以来、震災のことを思い出してふと泣きたくなるような気持ちになる時がある。当時ですら涙が溢れるようなことは一瞬たりともなかったのに。

9年経って、当時小学5年生だった私は成人し、心の持ちように変化が現れたのかもしれない。震災経験の別の形を受け入れてもいいかもしれないと思い始めている。

この気持ちの変化はただ9年経ったからなのか、私が成人したからなのか、環境の変化によるものなのか、少し判断はしかねるが、備忘と記録も兼ねてここに私の記憶について残しておく。

 


その日の午後の授業は5、6年生合同のサッカーだった。試合をしていて、いつもよりも帰る時間が遅くなっていた。いつも通りの時間に下校していたら、多分帰り道で地震を経験することになっていただろう。塀が倒れ、瓦が落ちていたあの帰路で。

試合中に同じ学年の男子が足を痛めて一足早く母親の車に乗って病院へと向かって行ったのを覚えている。

みんなが帰る用意をして昇降口に集まろうとしていた(普段から5、6年生は集団下校することになっていた)。下駄箱のあたりで私は委員会の仕事で挨拶運動をしていた時だった。今まで経験したことのない揺れを感じた。外で男の先生が外に出ろと叫んでいて、私は上履きのまま、外履を持って外に出た(途中まで避難訓練なんか頭から抜け落ちて靴を履き替えようとしていた)。

5、6年生と学童保育で残っていた児童たちが校庭の真ん中に集まった。とても立ってはいられなかったのでみんな座り込んでいた。揺れはしばらく収まらなかった。私は池の水が溢れる様子をじっと見つめていた。地震の瞬間について覚えているのは、座りこんでいる児童と池の水が溢れていたことだけだ。他のことは一切覚えていない。

本当に長い揺れだった。

揺れが収まってもしばらく帰ることはできなかった。数十分経って、保護者が学校にある程度集まった。

一足先に病院へ行った男子も学校に戻ってきていた。足にギプスを嵌めていた気がするので、多分病院には行けたのだろう。

私の母も学校にやってきて、集団で下校することになった。母に「家も凄いことになってるよ」と言われた。

綺麗に赤いレンガで舗装されていた学校の通り道も隆起していて見る影もない。帰路も民家の塀が倒れ、瓦が落ち、酷い有様だった。学校から帰るには川を渡る必要があるのだけれど、橋と道路が上下にずれていてここが一番スリリングだった。飛び降りるように橋から降りた。この橋はズレたままアスファルトで舗装されたので今でもかなり急勾配だ。高校のマラソン大会のコースにもなっていて一瞬だけど結構キツい。

この日は2番目の兄が通う中学校の卒業式が午前中にあり、父も母も揃って仕事を休んでいた。

家に帰ると、混沌だった。父は震災の後すぐに仕事場に向かったようでいなかった。台所が一番酷くて、棚から滑り落ちた皿やカップが割れていた。その中には私のお気に入りのマグカップが混じっていたはずだ。"私のマグカップが割れた"という気持ちが大きくて、どんなマグカップだったのか、もう覚えていない。3兄弟でお揃いだった兎が描かれた色違いの湯呑みも青色と桃色のものが割れて、今は緑色のものしか残っていない。

テレビは情報の嵐で、黄色と赤で日本列島が囲まれていた。原発が爆発を起こしている様子を中継で見た。

津波が来た瞬間のことは記憶にない。私が住んでいたのは海沿いの市だったけど、その中でも内地の方だったので津波が来る心配はなかった。次の日の朝刊に載っていた、小さい頃から慣れ親しんだ水族館や物産センターが水に沈んでいる写真が印象的だった。

その後の事は結構曖昧だ。断水して、風呂の残り湯でトイレを流した事、1週間後くらいに断水していない親戚の家にお風呂に入りに行った事、水の配給のために学校の校庭に並んだこと。それくらいしか覚えておらず、いつ停電や断水が復旧したのか、その間何を食べていたのか、どうやって過ごしていたのか、いつ学校が再開したのか、覚えていない。卒業式は中止になった。

私がこうして今も健康に怠惰に生きているのは、当時の母の並々ならぬ努力があったからこそなんだろう。車にガソリンを入れに早朝から出かけ、食料を確保し、水の配給に行き、2人のぼんやりした子供の世話をする。自分が当時の母の状況に置かれたら絶望的な気分になるだろう。原発関係の仕事をしていた父はしばらく帰ってこなかった。

再開後の学校は、今までと同じようにとはいかなくて、しばらく外での体育や外遊びが禁止になった。体育館も地震で壁が剥がれていたらしく、使えなくなっていたので、音楽室や廊下で体育をしていた。

赤煉瓦で舗装されていた校舎前の道も隆起したままで、雨が降ると水たまりができるようになった。道の脇には一つポツンとスターウォーズに出てくるR2-D2みたいな形の線量計が置かれて常に放射線量を表示していた。

私が実家を出る時はまだ天気予報で、天気、気温、放射線量がセットで放送されていたけど、まだそのままなんだろうか。

 

以前北海道で大規模な停電が起きた時、星が綺麗だというツイートが流れてきた。あの日の星は綺麗だったんだろうか。夜に外へ出なかったことを少し惜しく思っている。

 


9年という年月をどう受け取るかは人によってギャップがある。地元の式典の挨拶で、一生震災のことを言い続けるんだろうね、もう9年も経つのにという感想を持つ人もいれば(去年から震災とともに台風19号も語られるようになった。私の地元は浸水被害が大きかった)、9年経ってようやく震災時のことについて公に口を開く人もいる。

人間の時間への感じ方は千差万別だが、9年で形を持って変わるものもある。

3日後、9年間運転を見合わせていた常磐線が全線開通する。