私立暇人大学.ac

暇な私立文系大学生のブログ。

前回まで書いてた旅行記が完全に3日坊主で鼻で笑ってしまった。まあ気が向いたら続きを書こう。

 

9年経ったらしい。

この日に震災のことについて書く地元の知人は多いが、今年はやけに多い気がする。

私としては正直言って、この日に震災について書くことはしゃらくせえと思っている。今もしゃらくせえと思いながら書いている。

震災時の記憶について詳しく話すことなんて、同じ地元出身の友達と話す時くらいだ。日常会話でこんな話されても困るだけだろう。

震災に基づいた芸術作品も文学作品も、こうした震災関連の個人のブログでさえも、震災経験が何か別の形に昇華されていくことに対して、私の中では言語化し難い黒靄のような気持ちがあり、今まで少し距離をとっていた。記憶を風化させないために必要なことだと頭では理解していても、その別の形の向こう側には何か得体の知れない不気味さがあった。

私は8年もの間、部活やサークルといった形で芸術が身近なものであったけれど、震災を基にした作品を制作したことはない。18年間福島県で生まれ育ったことは、私にとって非常に大事なアイデンティティだが、福島県で2011年3月11日を迎えたことにアイデンティティを求めたことはなかった。"被災した"という言葉ではなく婉曲な表現を意識的に用いたことからもそこへの抵抗が自分でも感じられる。

先日、地元の友人と震災時のことについて話す機会があった。自分でも驚いたのだが、震災のことについて話して泣きそうになったのは初めてだった。友人の当時の状況に同調して悲しくなったのか、自分の当時の状況を受け入れて泣きたくなったのかはよくわからない。でもそれ以来、震災のことを思い出してふと泣きたくなるような気持ちになる時がある。当時ですら涙が溢れるようなことは一瞬たりともなかったのに。

9年経って、当時小学5年生だった私は成人し、心の持ちように変化が現れたのかもしれない。震災経験の別の形を受け入れてもいいかもしれないと思い始めている。

この気持ちの変化はただ9年経ったからなのか、私が成人したからなのか、環境の変化によるものなのか、少し判断はしかねるが、備忘と記録も兼ねてここに私の記憶について残しておく。

 


その日の午後の授業は5、6年生合同のサッカーだった。試合をしていて、いつもよりも帰る時間が遅くなっていた。いつも通りの時間に下校していたら、多分帰り道で地震を経験することになっていただろう。塀が倒れ、瓦が落ちていたあの帰路で。

試合中に同じ学年の男子が足を痛めて一足早く母親の車に乗って病院へと向かって行ったのを覚えている。

みんなが帰る用意をして昇降口に集まろうとしていた(普段から5、6年生は集団下校することになっていた)。下駄箱のあたりで私は委員会の仕事で挨拶運動をしていた時だった。今まで経験したことのない揺れを感じた。外で男の先生が外に出ろと叫んでいて、私は上履きのまま、外履を持って外に出た(途中まで避難訓練なんか頭から抜け落ちて靴を履き替えようとしていた)。

5、6年生と学童保育で残っていた児童たちが校庭の真ん中に集まった。とても立ってはいられなかったのでみんな座り込んでいた。揺れはしばらく収まらなかった。私は池の水が溢れる様子をじっと見つめていた。地震の瞬間について覚えているのは、座りこんでいる児童と池の水が溢れていたことだけだ。他のことは一切覚えていない。

本当に長い揺れだった。

揺れが収まってもしばらく帰ることはできなかった。数十分経って、保護者が学校にある程度集まった。

一足先に病院へ行った男子も学校に戻ってきていた。足にギプスを嵌めていた気がするので、多分病院には行けたのだろう。

私の母も学校にやってきて、集団で下校することになった。母に「家も凄いことになってるよ」と言われた。

綺麗に赤いレンガで舗装されていた学校の通り道も隆起していて見る影もない。帰路も民家の塀が倒れ、瓦が落ち、酷い有様だった。学校から帰るには川を渡る必要があるのだけれど、橋と道路が上下にずれていてここが一番スリリングだった。飛び降りるように橋から降りた。この橋はズレたままアスファルトで舗装されたので今でもかなり急勾配だ。高校のマラソン大会のコースにもなっていて一瞬だけど結構キツい。

この日は2番目の兄が通う中学校の卒業式が午前中にあり、父も母も揃って仕事を休んでいた。

家に帰ると、混沌だった。父は震災の後すぐに仕事場に向かったようでいなかった。台所が一番酷くて、棚から滑り落ちた皿やカップが割れていた。その中には私のお気に入りのマグカップが混じっていたはずだ。"私のマグカップが割れた"という気持ちが大きくて、どんなマグカップだったのか、もう覚えていない。3兄弟でお揃いだった兎が描かれた色違いの湯呑みも青色と桃色のものが割れて、今は緑色のものしか残っていない。

テレビは情報の嵐で、黄色と赤で日本列島が囲まれていた。原発が爆発を起こしている様子を中継で見た。

津波が来た瞬間のことは記憶にない。私が住んでいたのは海沿いの市だったけど、その中でも内地の方だったので津波が来る心配はなかった。次の日の朝刊に載っていた、小さい頃から慣れ親しんだ水族館や物産センターが水に沈んでいる写真が印象的だった。

その後の事は結構曖昧だ。断水して、風呂の残り湯でトイレを流した事、1週間後くらいに断水していない親戚の家にお風呂に入りに行った事、水の配給のために学校の校庭に並んだこと。それくらいしか覚えておらず、いつ停電や断水が復旧したのか、その間何を食べていたのか、どうやって過ごしていたのか、いつ学校が再開したのか、覚えていない。卒業式は中止になった。

私がこうして今も健康に怠惰に生きているのは、当時の母の並々ならぬ努力があったからこそなんだろう。車にガソリンを入れに早朝から出かけ、食料を確保し、水の配給に行き、2人のぼんやりした子供の世話をする。自分が当時の母の状況に置かれたら絶望的な気分になるだろう。原発関係の仕事をしていた父はしばらく帰ってこなかった。

再開後の学校は、今までと同じようにとはいかなくて、しばらく外での体育や外遊びが禁止になった。体育館も地震で壁が剥がれていたらしく、使えなくなっていたので、音楽室や廊下で体育をしていた。

赤煉瓦で舗装されていた校舎前の道も隆起したままで、雨が降ると水たまりができるようになった。道の脇には一つポツンとスターウォーズに出てくるR2-D2みたいな形の線量計が置かれて常に放射線量を表示していた。

私が実家を出る時はまだ天気予報で、天気、気温、放射線量がセットで放送されていたけど、まだそのままなんだろうか。

 

以前北海道で大規模な停電が起きた時、星が綺麗だというツイートが流れてきた。あの日の星は綺麗だったんだろうか。夜に外へ出なかったことを少し惜しく思っている。

 


9年という年月をどう受け取るかは人によってギャップがある。地元の式典の挨拶で、一生震災のことを言い続けるんだろうね、もう9年も経つのにという感想を持つ人もいれば(去年から震災とともに台風19号も語られるようになった。私の地元は浸水被害が大きかった)、9年経ってようやく震災時のことについて公に口を開く人もいる。

人間の時間への感じ方は千差万別だが、9年で形を持って変わるものもある。

3日後、9年間運転を見合わせていた常磐線が全線開通する。

中国旅行記② 咸陽・西安

朝が来た。体の中で1時間混乱が起きていて、8時に起きるつもりだったのだが、7時くらいに何度も目が覚めた。

今日は西安の散策が予定されている。ここぞとばかりにチャイナっぽい服を着て、ジーパンを履いて、軽く化粧して準備完了。

マイクロバスで移動して、咸陽の庶民的な朝ご飯を食べた。

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名前もどういう肉かも知らないけどおいしかった。でもパクチーはちょっと苦手。外に出て看板を見てみると「水盆羊肉牛羊肉泡」の文字。なんとなく想像できるようなできないような。結局あのお肉はなんの肉だったんだろう。私は知らないうちに羊を食べていた?

Cさんがクルミとナツメをくれた。

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クルミはお店の人がその場で割ってくれていた。乾燥しきれてない感じ。苦い。ナツメは水分量が少なめのリンゴのような感じがする。小さくて食べやすい。結構好きかもしれない。

この後そのまま周陵に行った。周の王様のお墓。殷周秦漢の周。

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大殿の中にはでっかい文王ともう2人くらいの像があった。誰の像だったかは忘れてしまった。照写禁止という看板があって、フラッシュ禁止ってこと?とCさんに尋ねたら写真禁止という意味らしい。Cさんは動画撮ってた。いいのかそれ。来年には動画禁止の看板も追加されてるかもね~とか言ってた。本当に大丈夫?

Cさんは時節、置いてあるものや建物について解説してくれるのだけど、声がほとんど聞こえない。後ろの方になるとほぼ聞き取れないので諦めて写真を撮っていた。

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Cさんは自分でも認めるほど声が小さいのだ。あと地元の子供の兄弟がちょろちょろ割って入ってくるので気がそれる。元気だね。お父さんが見守っていてたまに怒ったように声を張り上げるけど彼の声が聞こえているけど聞こえていないらしい。どこまでも走っていくし、全力でおもちゃの剣を振り回している。元気だね。

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そのままさらに奥に行って小道を渡り、階段を上ると開けた草原に出た。

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草原を道なりに進むと視界がさらに開ける。奥の階段の下には石の道が続いていて、続く先には小高い丘がある。

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周りは夏らしい緑が茂っていて、その向こうには街が並び、西安空港に向かう飛行機が見えた。日差しは暑いけれど、風は涼しい。ずいぶん気持ちよさそうなお墓だった。

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その後、アイスを食べて西安まで移動した。道中は建てかけのマンションだかビルだかがいっぱいあるし、同じような建物がいっぱい建っている。

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西安は昔は長安と呼ばれていた。漢や唐、その他宋までの様々な王朝が都をおいた都市だ。日本の平安京平城京長安に倣ってつくられたし、中国には「100年の歴史を知るなら上海、1000年の歴史を知るなら北京、4000年の歴史を知るなら西安」という言葉があるらしい。それほど西安は歴史深い街なのだ。シルクロードの起点とも言われる。

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西安の内側の城門(外側にも城門があって、そっちの方が古いらしい)を抜けてホテルにチェックイン。

今日のホテルは「塞納河艺术酒店」英語だとLA SEINE ART HOTELセーヌ川芸術ホテル。どういうこと?

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部屋に荷物を置いて自由に西安を散策する。またも同じ部屋だったTと、Tと仲がよさそうなMと3人で連れたって行った。屋台がいっぱいあって食べ歩きができるらしい回民街を目指していたが、めちゃくちゃ迷っていた。西安は鐘楼を街の中心において、そこから東西南北に大通りが伸びるわかりやすい構造をしているはずだけれど、めちゃくちゃ迷った。私たちは誰一人海外用Wi-Fiを契約せずに来たのでネット環境がなく、google mapに頼ることもできなかった。英語も通じない中国人に尋ねたり、怪しげな道を通ってようやく回民街に到着。中国の文化というよりも西域の文化の風を感じる。

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昔、西安シルクロードの起点なだけあって、様々な文化や人がやってきていた。その中にイスラム教(回教)もあり、回族はそのイスラム教を信仰する民族集団。回族の居住地にできたのが今回の目的地である回民街である。高校の世界史では、なぜイスラム教が中国で回教と呼ばれるのかというのは、スーフィズムの回旋演舞から来ているという説明だったはずだけれど、今こっそり調べたら諸説あるらしい。でも一番それっぽい説だと思う。

豚肉を食べることが禁じられているイスラム教らしく、羊の蹄とか羊肉が多めに売られているような印象だった。食べたものをざっくり後々調べた情報も付随して紹介する。

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飲むヨーグルト。酸奶(スァンナイ)というらしい。唯一覚えた中国の食べ物の名前。今回の旅の中でたぶん3本くらい飲んだ。10~12元くらい。(今回の旅の中でのレートは1元=16円でざっくり計算した)

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镜糕(ジンガオ)。もち米のお菓子。ジャムとかゴマとかつけるっぽい。もち米そのものは甘くない。

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桂花糕(グイホアガオ)。見た目は完全にカステラだけど触感はすごくもち米。たぶんもち米で作ったお菓子。もちもち。全然甘くない。ちょっと酸味がある。

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めっちゃ煙が出てるお菓子。これ売ってるお店はTikTokのアイコンを屋台に貼ってたので多分TikTokで人気。食べると口や鼻から煙が出てくる。味は虚無。随分俗っぽいものを食べてしまった。

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炒酸奶冰淇淋(チャオスァンナイビンジーリン)。ヨーグルトと果肉を混ぜたロールアイス。アイスだけかなと思ったら終わりに小豆やらドライフルーツやらマンゴーやらいろいろ乗せてくれた。甘くておいしい。

それからザクロジュースもそこかしこで売っていたけど、私は読んでいる途中だった『石榴』の硫酸殺人事件の被害者を思い出してしまい、あまり飲む気になれなかった。

この後、回民街を歩いていたら、謎の鳥を見つけた。

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なんだろうあの鳥。結構大きいけど悠々と歩いている。引きで見ると看板には高家大院の文字。中国に来る前に西安地球の歩き方を参照したのだが、そこに乗っていた気がする。科挙に合格した高岳という人物の家で、伝統影絵の上映もしているらしい。影絵見てみたいねとTと2人で入った。Mは興味ないらしい(Mは嫌なことは嫌だとはっきり言える人物なので、尊敬する)。

影絵の上映付きだと1人30元なので、2人で30元ずつ計60元出したのだが、入り口のお姉さんはなぜか30元しか受け取ってくれなかった。2人で頭に???を浮かべながら影絵の上映場所を探す。広いしかなり雰囲気がある。焦りながら歩き回っていたら(1時間ごとに1回しか上映されず、上映時間を数分過ぎていた)、観光客っぽいお兄さんが指さして建物を教えてくれた。入り口でよし入るぞ、と入ろうとしたらお姉さんに首を振られた。ここで入り口の30元の謎が解ける。入るだけなら一人15元なのだ。影絵を見ないと思って、入り口のお姉さんは30元しか受け取ってくれなかったのだ。2人で痛恨のミスを悟り、言語の壁に打ちのめされながら、中をうろうろして鳥の写真を撮って出た。

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近くに清真大寺(モスク)があるらしいので向かう。教科書で見た清真大寺を生で見ることになろうとは、高校生の頃の私は思いもしなかっただろう。中国史そこまで興味なかったから。清真大寺自体は回族の多い地区なら結構どこにでもあるけど、この清真大寺は唐の時代にできた中国最古のモスクなのだ。

人に道を尋ね、一層西域の雰囲気が強くなった道を抜けながら清真大寺にたどり着いた。入り口で入場券を買う。25元くらいだった気がする。おつりは隣の人との会話に夢中なヒジャブを被ったおばちゃんに投げて返された。

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清真大寺は中国風建築のモスクだった。建物自体は中国的な雰囲気を感じるのに、像がなかったり、アラビア文字の石碑だったり、そこかしこにイスラム的要素が散らばっている。

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回民街はあれほど賑わっていたのに、ここは人もまばらで閑静で、対照的な雰囲気に少し戸惑った。そこまで広くもなく、集合時間までの時間も残り少なかったのでさっくりと境内を一周してホテルまで戻った。

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(中国式ミナレット)

集団行動で歩いて南門近くの碑林地区に向かった。固いパンに肉を挟んだ肉夾饃(読み方がわからないので私はずっと英語で書いてあったchinese hamburgerと呼んでいた。今調べたらロージャンモーというらしい。西安の名物。)を、これが有名な食べ物、と言われてCさんにもらって食べた。これ昼にも食べた。本当にあちこちにあって、Tは西安にいる間多分5個ぐらい別の店で食べていた。

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碑林地区から大雁塔まで4人1組になってタクシーで向かった。降ろされる場所がまちまちなので合流できる気がしない。いったん合流は諦めて今回の目的である大雁塔の目の前の噴水ショーを見た。光と水のコラボレーション。金がかかってそうだ。見ている人が一斉にスマホやカメラを取り出して撮っていた。西安という古都に対してあまりにも現代的な光景で笑ってしまった。かくいう私も撮った。

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奇跡的に全員合流できたので大雁塔の方へ歩いた。ちなみにいうと、大雁塔は玄奘三蔵法師)が西域から持ち帰った経典を収めるために作られた建造物である。もうとっくに閉まっている時間だったので周囲を散策したけれど本当にお土産を売っている屋台が多い。屋台はめちゃくちゃ多いが内容はだいたい一緒で値段もだいたい一緒。10元だとか20元だとかボロボロ売っていて、ぼられてるのかもしれないけど値切る必要も感じないほど安い。ここでは何も買わなかったけど、帰りに笛を2つ買った。

黒い方が10元で赤い方が20元。絶対帰ったら使わないとわかっているけど160円と320円かと思うと買っていた。誰かのお土産になっているかもしれない。穴の抑え方についての紙も貰った。試しに吹いてみたけどそこはかとなく音階になっているような気がしないでもない。まあそんなもんだろう。

夜は火鍋を食べた。まじで今まで食べたことないくらい辛かった。人生初の辛さ。

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赤いほうは本当に本当に辛くてしばらく舌がしびれていて、あとから食べた赤くない方が辛いのか辛くないのかもわからなかった。四川省出身のCさんの娘Zちゃんは平気な顔をしてパクパク食べていた。強い。

あと青島ビールも飲んだ。日本のビールよりあっさりしていて飲みやすいような気がする。あまりビールは好きじゃないので味を伝えるのは難しい。ちょっとだけ飲んであとはずっとオレンジジュースを飲んでいた。このオレンジジュース、多分ロゴ的にミニッツメイドなんだけど日本のものと違ってたくさん果肉が入ってる。味は一緒。

火鍋を食べた後は各々タクシーでホテルまで帰ってきた。24時くらいにホテルに帰ってきたけど、23時半くらいの大雁塔周辺はずっと明るかった。西安は夜でも明るい街だ。

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私たちが乗ったタクシーは15元前後だったけど、あとから聞いたら40元とられた組もいたらしく、やっぱりタクシーってぼられやすいんだなと実感した。ぼられてると思っても言葉通じないし値下げ交渉も難しいな。

夜はその後Zちゃんの誕生日会をした。この日が誕生日だったのだ。何やら目標を述べていた。なんて意識が高い子なんだ。中学生の自分はこの子を見て何を思うんだろう。マンゴスチンと平べったい桃も食べた。マンゴスチンはライチをもっととろっとさせた触感がした。甘い。平べったい桃は普通に硬めの桃だった。

明日は15時まで自由行動。ホテルの自分の部屋に戻ってシャワーを浴びた。今日のホテルはちゃんと段差もドアもあって安心した。10時にホテルのロビーに集合することを約束しあってベッドで就寝。今日のことを振り返る余裕もなく一瞬で落ちた。

中国旅行記① 西安・咸陽へ

9月6日金曜日。私は単身大阪へと向かっていた。6:18新横浜発の新幹線の中で、ああ、あれを持ってくれば良かった、これを入れ忘れたなどと考えていたはずなのだけど、旅を終えてこれを書いている今となっては何を忘れたのかとんと思い出せないので、大して必要なものではなかったのだと思う。

新幹線を降りたところでようやく、あれそういえば関西国際空港までどうやっていくのかしらと思い至った。少し気恥ずかしさを覚えながら改札の横で乗り換えを調べ始める。2時間何してたんだろう。

はるかというやつが直行で出てるらしい。いや待て、ちょっと高いぞ。めんどくさいがいったん大阪駅に行って環状線に乗り換えることにした。1000円くらい違う。全力で関西特有の右乗りエスカレーターを詰まらせ、謝罪の言葉を表で吐き、内心ではエスカレーターの片乗り文化に呪詛を吐きつつホームに降りた。

関西の電車は座席が左右向い合せじゃなくて前を向いているんだなと思いながら一人席に座ったら、関西国際空港駅は終点だったので気を抜いてしまい、いつの間にか寝ていた。終点で年齢も顔もわからない女性(私に声を掛けたらすぐに消えてしまい顔を見ていなかった)に「着きましたよ」と起こされて慌てて電車を飛び降りる。終点折り返しの電車だった。危ない。名も知らぬ親切な女性に感謝しながら第2ターミナルへ歩いて行った。

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集合時間の11時までにはまだ1時間ほど時間があった。今回の旅行はツアー参加である。どんな人が来るのか、何人くらい参加するのか全く知らない。もともとは船で上海までゆっくり行く予定だったが、台風の影響で急遽飛行機に変更になったと前日に連絡があった。追加料金で懐が痛い。空港のドラッグストアでとりあえずストッパを買った。中国への旅行で一番不安だったのは食事だった。口に合うか、体に合うのか。お腹を下したらどうしよう。中学の修学旅行の時に横浜中華街で食べた料理がチャーハン以外全くおいしくなかったのが記憶に鮮明で、本場の味は日本人の口には合わないのだろうと思っていた。結論から言うとストッパは一回も使うことはなかったし、食事はめちゃくちゃおいしかった。それはこれからゆっくり語っていくことにしよう。

歩き回っていたらちょうどいい時間になってきたので集合場所に向かうことにした。翼の広場とかいうやつらしいがずっとうろうろしていてもそれっぽい場所がない。インフォーメーションに尋ねると、今はもうないらしい。とりあえずもともと翼の広場があった場所がこのあたりなのでここに向かってみては、と言われた。なんだか先行きが不安になってきた。向かってみるとちらほら参加者っぽい人がいるけど確信が持てなくて何回もトイレに行った。話しかけられなかった。私は自他ともに認めるコミュ障なのだ。

私が何回目かトイレから出てきた時、集合場所を変更する旨のメールが来て、場所を移動した。20人くらいの人がそこにはいた。女性が多めで、男性が少し、中年の男性が1人混じっているくらいであとはほとんどが学生に見えた。今回のツアーは乗馬もする上に、日数も長めなので体力があって時間のある学生が多いのだろう。

今回の引率は長年このツアーを主催するCさん。中学生の娘のZちゃんも一緒に来ていた。2人とも日本語も中国語もペラペラ。空港の一画で円になって自己紹介をしあった。とてもじゃないけど全く名前を覚えられないのでとりあえず隣の人の名前を覚えた。春ににょきにょき生えてそうな名前だったので覚えやすかった。

直前に飛行機を取ったので全員一緒の飛行機はとれなかったらしい。先発組(天津乗換)と後発組(西安直行)に分かれ、私は後発組となった。20時出航らしい。当時11時半。まじか。先発組は14時出航なので会ってすぐひと時の別れとなった。引率の人いなさそうなんだけど大丈夫なんだろうか。(後から聞いたら引率なかったらしい。まじか。)

とりあえずお腹が空いている何人かで連れたってごはんを食べに行った。うどんだった。昨夜は最後の日本での食事、と思いながら二郎系のラーメンを食べていたので大変胃に優しい。

今回のツアーは関西以西の参加者が多いみたいだ。方言トークで盛り上がるテーブル。盛り上がりつつも席を立ったのは14時くらい。17時くらいまではすることがないので暇を極めている。1時間半くらい空港内を散策するも(そういえばこの時meijiのALMONDを買ったなと思い出して今発掘した。書きながら食べているが、潰れてたけど変わらぬ味で美味しい)限界がきて、椅子に座り込んで、この時間にはもう船に乗ってたはずなのになあと話しながらちょっと寝た。急に本を買いたくなってTSUTAYAに走り、表紙がかっこよかった『江戸川乱歩名作選』を手に取った。今回は海外用のWi-Fiを契約しなかったので多分かなり移動時間とか暇になりそうだなと思って買った。旅行中に読み終わる予定だったけど結局短編一つしか読み切れなかった。

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これの右上。『人間失格』と『こころ』と『午後の恐竜』も欲しいです。

いよいよ搭乗、出発。搭乗手続きでちょっと揉めた。というのも私たちは帰りの手段を確定させていなかったからだ。搭乗手続きでは帰りのチケットも見られて何日滞在するのかを確認される。行きが台風で船から変更になったので、もしかしたら帰りも飛行機になるかもしれないと判断が宙ぶらりんなところであった。結局向こうで入国拒否されても文句言いませんよという旨の契約書にCさんが著名して搭乗手続きを終えた。向こうについても日本に帰されるのでは……。

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大きな不安を抱えながらソルティライチバウムクーヘンを買って飛行機に乗った。何回乗っても飛行機の離陸の瞬間は緊張する。Gが体にかかり、地面を離れた時のあの内臓が浮く感覚。好きになれない。海南航空という航空会社の飛行機だったが、チャイナ服っぽい制服でかわいい。機内食も出た。野菜はおいしくなかったけど、唐揚げっぽいのはおいしかった。なんだかパンは慣れ親しんだ食感がするなと思って裏を見たら日本のパンだった。さもありなん。

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買ったばかりの『江戸川乱歩名作選』の中の一つ目の短編『石榴』を読み進めたり寝たりしながら4時間後、西安空港に到着した(ちなみに石榴は硫酸をかけられてぐちゃぐちゃになった人間の顔の比喩だった。もうちょっと穏やかそうな本を買えば良かった)。入国審査はパスポートの情報と泊まるホテルを紙に書いただけで拍子抜けするぐらいあっさり通された。ガバガバすぎてちょっと別の意味で不安になる。この時書いたホテルは日程変更で結局泊まらなかった。

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驚くことに世界4位の面積を持つ中国の国内での標準時間は統一されていて、東北地方の満州だろうが西端の新彊だろうが問答無用で北京時間が適用される。どこに行っても(非公式には新彊時間は存在するが)公式には日本との時差は1時間だ。中国の全土統制へのささやかな断片に思いを馳せながら腕時計の時間を1時間遅めた。

それから、荷物を受け取る前にちょっとトイレに寄った。綺麗な洋式トイレだったけど、便器に被せる使い捨ての便座シートがあって、それが必要になる状況って一体……と宇宙猫になってしまった。流してしまってから気づいたんだけど、中国は使用したトイレットペーパーをトイレに流せない。備え付けのトイレットペーパーは3枚重ねかってくらい分厚いし、流せないのは紙の問題なんだろうか?下水の問題?使った紙はトイレ内のゴミ箱に捨てなければいけない。かなりハイペースでゴミ箱を回収しないとかなり臭いことになりそう。どうか詰まりませんように、と祈るような気持ちでトイレットペーパーを見送った。

先発組とも無事に合流し、マイクロバスで咸陽のホテルへ向かった。乗り込む人数がギリギリなので後ろの座席に積んだスーツケースがなだれ落ちそうだった。通路にもスーツケースを置いて横に座る人が動かないように手で抑える。深夜0時も過ぎた夜中なので外を見ても街灯が灯るばかりでうっすらと見える中国語の看板以外特に何も見えない。明日へ期待を膨らませる。西安と咸陽は伊豆と東京くらい距離があるらしい。近いような近くないような。東北出身、横浜歴2年目の私にはよくわからない。中国の地図を開くと近そうに見えるが。というか咸陽=西安だとなぜか勝手に思ってた。西安の昔の名前が長安でもっと昔の名前が咸陽、みたいな。全然違う場所だった。

湖滨國際酒店に着いたのは夜中の2時くらい。眠すぎる。中国のホテルは名前に酒店か飯店が付くところが多い。寝るのが重要じゃなくてご飯を食べたり酒を飲んだりするところだったんだろうか。

ホテルの部屋割りは自己紹介の時に唯一名前を覚えた隣に立ってたTと一緒だった。シャワーをさっくり浴びて(浴槽無しのユニットバス。トイレ側との段差がないうえ仕切りも特にないので浴室中に水が広がってどうしようかと思った。)ベッドに身を投げて就寝。初日にして3日目くらいの疲労を感じる。数時間前にはまだ日本にいたとか信じられない。

明日は9時集合みたい。まじか。

中国旅行記序

9月17日の11時ごろ、マンションをエレベーターで上がってむくんだ足で自分の部屋に入ったとき、なんだかがっかりした。私の脳裏にはみんなで布団と寝袋にくるまって寒さに震えながら寝ていたあのゲルが思い浮かんでいて、乱雑さから逃げるように発った11日前と全く変わらない、水気を切った洗い物がそのままになっているような蒸し暑く寂しい一人部屋との落差に悲しくなった。

 

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あまり人には言わずに行ったけれど、私は9月6日から9月16日まで10日間の旅に出ていた。場所は中国。初めての中国だった。中国観光でメジャーな北京や上海には行ったは行ったけれど、私が一番長く滞在したのは内モンゴルの草原であった。

 

日本語も英語も通じないような地で不安を抱えながら、初めて会うおよそ20人の仲間たちと駆けた10日間を記憶をさらいながら記録も兼ねて、徒然なるままに淡々と綴ってみようと思う。しばらくこのことについて更新していく。多分詳細な無駄話も多いと思うが、私にとっては大事な無駄話なのでご容赦いただきたい。

特に思いつかない

(※情緒乱高下)

 

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4ヶ月前の私は絵日記風のエッセイに憧れてたみたいだけど今そんな余裕ないわ。ごめん4ヶ月前の私。代わりに最近食べたおいしい肉の写真貼っとくね。

 

7月15日、今日はなんと私のハタチの誕生日のちょうど1ヶ月前らしい。

20歳、ハタチ。

毎年毎日日本中で誰かが20歳を迎えているし、20歳になったからといってせいぜい酒とタバコを合法的に嗜められるようになるくらいで、現状が劇的に変わるかというとそうでもないんだぜ。

世の中の大人はそう言ってくる。

そんな世間の冷めた大人に対して私はこう思うわけである。

うるせー!私が自分が20歳になることを噛み締められればそれいいんだよ!

20歳だぜ、20歳。10歳でも15歳でも18歳でも30歳でもない。ハタチだぜ。ハタチを特別に思わないで何歳を特別に思うんだ?

最近amazonほしい物リストの使い方を覚えた。twitterのリンクもこのブログじゃなくて私の物欲リストにしれっと変えた。将来の夢はほしい物リストを活用しなくてもよくなるくらいの経済力を持つことだ。欲しい→購入までのプロセスを限界まで短くしたい。欲望に忠実に生きていたい。欲望に忠実に生きていけるくらいの財力が欲しい。まあ要は世間一般の考えに違わず金持ちになりたい。

ハタチか〜ティーンも残り1ヶ月だけど何しようかな〜まずは10代のうちにしたい○○みたいな本読もうかな〜。

読んで満足してハタチになってそうだけど。

https://www.amazon.co.jp/dp/4479303146

とりあえずこれもほしい物リストにぶち込んどこう。

 

そんな20歳1ヶ月前の私はいつも通り試験に追い詰められている。私がこのブログを更新するときはだいたい試験前。

多分ね、追い詰められるとなんか別のことしたくなっちゃうんだよね。いや別のことしてるから追い詰められちゃうのかも。

明日は2外の試験と調査企画書を作っていかなきゃいけないんだけど、これがまーじでやる気でない。虚無。無理。だってまだ一ミリも手をつけてない。明日の試験急になくなったりしないかな、朝起きたら小人さんが全部終わらせておいてくれないかな、気づいたらロシア語の達人になってないかなとか他力本願な気持ちになってる。

午前中は寝倒して無意味に過ぎたし、午後はバイトを交代して働いた。何してんだ。キミ進級する気ある?

気持ちだけはあるよ。

軽率にバイト交代したら2時間半も残業したし。早く帰りたいときに限って帰れない。世の中の真理だ。やあ真理くん、こんにちは。

明日を乗り越えても明後日も試験だしその次の日も試験だしそのまた次の日も試験だし。うんうん、他の学生も考えるような平凡な思考だよね。でも試験楽しみ!!!なんて学生いる?いないよ。

 

昼間はカケラもやる気でないことは経験上わかってるから、まずは昼夜逆転させてくる。

 

追記

全然眠れなかった。いま深夜4時。起きておくか頑張って寝るかの瀬戸際にいる。

文を書くということ

文って書くの、難しくないか?

 

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早いもので3月も下旬になり、暇すぎて散財してしまうので早く終われとも思っていた春休みは残すところあと10日ほどだ。2ヶ月ぶりに更新している私は眠れない夜を過ごしている。いや空が白んでいる。もうほぼ朝。みんなおはよう。

私は文を書くという行為が苦手だ。この苦手意識の原因は私が小学生の頃にまで遡る。

(この話は結構散々周囲に喋っているのでご存知の方もいるかもしれない)

国語の宿題を出された。感想文だった。なんの感想文を書くかと思えば「ありの行列」。小説じゃない、説明文だ。蟻が餌を見つけた時、お尻から特殊な液を出しながら帰ることで仲間がそれをたどって餌にたどり着き、アリが行列をなす、といった説明文だったと思う。言ってしまえばそれだけだ。

感想と言ったらへーそうなんだ、だろ。それ以外あるのか。自分の中に雑学が1つ増えた程度の気持ちをどうやったら作文ノート2ページ分まで膨らませられるんだ。

宿題なので出すしかない。アリって賢い、勉強になった、すごいと思った。そんなことをぶつ切りに書き連ね、ひたすらマスを埋めた。

返却されたノートには赤いインクで二重丸が書かれていた。周囲の人間のノートは軒並み花マルだった。

最悪なことにこの感想文、発表の時間まであった。みんな次々手を挙げて発表していく。これはやばいと思った。私の存在はどうか忘れてくれと縮こまっていたら残り数人といったところで教師がもう発表していない子はいないねと発表を打ち切った。子供でもわかることがある。あの教師は作文の出来が悪い児童がまだ発表していなかったことを絶対に把握していた。間違いない。

学年40人の田舎の公立小学校で周囲に強烈な劣等感を覚えたのはこれが初めてだったね。

というわけで私は些か作文というものにトラウマを抱えているのだ。

こうしてブログを書くことで日々リハビリに励んでいるが、私の座右の銘は「楽に楽しく頑張らない」。そもそも文を書こうと思う気持ちがあんまり湧かないから結果は芳しくない。

書いてるうちに思考がズレていく、何を書こうと思っていたか忘れる、途中で飽きるからシメが雑。一本筋通った文が書ける人が羨ましい。

終わりが雑だと文章は急にチープになる。

 

最近、「大泉エッセイ」という本を読んだ。タイトルからわかる通り大泉洋が仕事で16年間書き溜めたエッセイを纏めたものであるのだが、これがなかなか大泉洋という人間の人となりが文に滲み出ていて面白い。やけに楽しげに文を書いている。

どんな楽しい状況で書いてるのかと思ったら締め切り直前の飛行機の中だとか、締め切り直前のホテルの中だとかなかなかに追い詰められた状況が多いようだった。

私も字数制限と締め切りを設けてみようか、とも思ったが設けた結果が上述の通りなので難しいもんだ。

それからエッセイの中には絵日記風のものもあった。味のあるイイ絵だった。イイなぁと感化されたので今回から一枚さらっと書いて載せていこうと思う。

迷子になった話

学校がないというのは実に暇である。世間の多くの大学がそうであるように、私の大学も試験期間に突入した。私にとって重要な試験は語学だけで、あとの単位を落とそうが後の私が苦しむだけで大した問題ではない(ある程度単位をとらなければ進級が怪しくなるがたぶん大丈夫だろう)。語学は試験期間前に試験が終わるので、消化試合(一般教養科目)についても試験がある科目が多くないので、私の試験期間というのはたいそう暇である。

スマホをいじり続けるのも限界がきている。積んでいる本をちょっと読んだが1時間半ほどで飽きてしまった。春休みも多分こんな調子で過ごすのだろうが、暇で死ぬんじゃないだろうか?

 

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閑話休題

 

私には8つ年上の兄と4つ年上の兄がいるが、小さいころ4つ年上の兄にとても懐いていた。一緒にお風呂に入りたがったし、一緒に寝たがったし、学校から帰ってきた兄が遊びに行くのにいつも付いて行こうともしていて、よく邪険にされていた。(こうして思い返すとなかなかうざったい妹だ。)

邪険にされていたと言っても、よく一緒に遊んでくれたし、学区外にも連れて行ってくれたし(子供だけで学区外に行ってはいけないと言われていた優等生な私にとって学区外に行くということはちょっとした冒険だった)、漫画も読ませてくれたし、ゲームもおさがりでもらっていた。小さい頃の私にとって、4つ上の兄は知らない世界を教えてくれる一番身近なちょっと大人な存在だった。小さいころ一番影響を受けた存在は間違いなくこの兄だろう。

 

ある日、この兄と自転車に乗って学区外へ出かけた。何があってそうなったかは覚えていないのだが、途中で私だけで家に帰ることになった。別れた場所は兄が通う中学校周辺で、自宅から自転車で10分もしない場所。兄は今来た道を戻れば帰れるはずだし大丈夫だろうと思っていたのだろうし、当の私も思っていた。

この論調でもう察しはつくだろうが、ものの見事に私は迷子になった。どこでどう間違えてそうなったのか、どこからどう見ても迷子だった。

周りは知らない住宅街、私に脳裏に浮かぶことはただ一つ。

(一生家に帰れなくて、家族にも会えないんだ……)

子供の思考というのは単純である。

自転車をこぎながら半泣きの私に、救世主が現れたのはその時である。わき道を知らないおばちゃんを歩いていた。当時から猛烈なコミュ障を患っていた私には知らない人に声をかけるというのは果てしない勇気が要ることであったが背に腹は代えられない。

私は来た道も戻れないポンコツではあったが、賢い子供ではあったので「私の家はどこですか?」と尋ねても「は?」と言われるのは簡単に想像がついた。「すみません、〇〇小学校はどこですか?」と藁にも縋る思いで尋ねた。

「知らんねえ……」帰ってきたのは無情な響きだった。自分の通う小学校も知られていないほど遠い土地へ来てしまったのかと絶望した。

しかし、ここで諦めたら一生家に帰れない。まさに背水の陣だった私は「××中学校はどこですか?」と兄の通う中学校の場所を聞いた。少しでも見知った場所に出たかった。救世主おばちゃんは「ここをまっすぐ行って左だよ」の一言。なんと私が未知の遠い地だと思っていた場所は兄の中学校の目と鼻の先だった。

救世主にお礼と別れを告げ、私は帰路へと付いた。

見知った道に出て、家が見えてきて、無事に家につくと今度は本当に泣いた。当時からプライドの高い子供だったので、迷子になって泣いた姿を見られたくなかった。自分の部屋でこっそり涙をぬぐい、ちょっと寝た。

兄も母も、誰も知らない私の小さな冒険はこれで終わりである。

 

今も、たまに気ままに歩いて自分がどこにいるのかわからなくなる時がある。そんな時はポケットから颯爽とスマホを取り出し、

「Hey,Siri、私の自宅まで」

今の私の救世主はスマホだ。便利な世の中である。